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吉田 茂(よしだ しげる、1885年9月2日 - 1954年12月9日)は、昭和時代の内務官僚、貴族院議員。 岡田内閣の内閣書記官長、米内内閣と小磯内閣で閣僚を務めた。戦後、公職追放にあう。 戦後、内閣総理大臣を務めた外交官・政治家の吉田茂とは同姓同名の別人であるが、しばしば書籍・ウェブサイトなどでは混同されて紹介されていることがあるので注意を要する。 == 経歴 == 大分県臼杵町(現在の臼杵市)で日本銀行行員であった士族の長男として生まれる。旧制東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)、第一高等学校を経て、1911年に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格。 1911年内務省入省、1917年(大正6年)8月より明治神宮造営に伴う内務省勅任官として1923年6月まで明治神宮造営局において従六位の書記官を務めた。東京市の市長となった永田秀次郎の任命で同年6月から1924年(大正13年)9月まで東京市助役として出向。造営局時代の経験を活かして関東大震災後は復興策に参与、後に本省に戻って復興局長官官房文書課長、整地部長として難事業とされた工地区画整理事業を手掛けた。 内務省神社局長、社会局長官、内閣書記官長、軍部や「新官僚」の拠点とされた内閣調査局(のちの企画院)の初代長官を歴任した。労働組合の法制化問題などを担当して、「革新官僚」・「新官僚」と称される官僚の一人と目される。田澤義鋪らと同じく協調会常務理事も務めた。 また神社界にも縁が深く、戦前期に國學院大學の経営母体であった皇典講究所専務理事も務めており、戦後、占領下にあってGHQから出された神道指令の影響のさなか、葦津珍彦や宮川宗徳らとともに神社本庁の設立に尽力した。 岡田啓介内閣では内閣書記官長に任命される。1937年、貴族院勅選議員に任命された。1935年には内閣書記官長から転じて初代内閣調査局長官に任命された。 米内光政内閣では内務省から分離されてから間もない厚生大臣を務め、東條英機内閣では福岡県知事、小磯國昭内閣では軍需大臣を務めて、戦争遂行に深く関与した。 1946年に公職追放を受け、7年後の1953年に復帰して神社本庁事務総長を務めたが、間もなく没している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉田茂 (内務官僚)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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